メルボルン便り その2 (2003.8.2)

   チャイニーズ・レストラン

Hi、皆さん、おひさしぶりです

今日は、オーストラリアのチャイニーズレストランについてお話したいです。

ある時期、私は中国人の観光客を相手にメルボルンでツアーガイドをしました。
「郷に入っては郷に従え」とは言え、あまり味のないオージー料理はやはり中国五千年の食文化に勝てず、 どこに行っても彼らの食事は必ず中華料理屋に行っていました。 私が驚いたのは、どんな田舎町でも、必ずチャイニーズ・レストランがあります。 しかし、チャイナ・タウンを除き、その数は一軒かせいぜい二軒しかありません。

そのなぞを解くため、私はちょっとオーストラリアの歴史をのぞいてみました。

実は、19世紀の中頃、大英帝国やアメリカの奴隷制の廃止、 およびそのころメルボルンで発見された金鉱などが、 オーストラリアという新大陸における労働力不足の問題を深刻化させました。
その対策として、大量の中国人が使役として雇われました。 国際的な労働力の移動は、食文化の移動でもあります。 当時オーストラリアに来た中国人の大半が、広東省出身のため、建設されたチャイナ・タウン文化は、 当然広東料理が主流となっていました。 

メルボルンに来たばかりのころ、よくこういう助言を聞かされました。 「広東語を話せなければ、チャイニーズ・レストランのアルバイトに応募しないほうがいいですよ。」 たしかにレストランに行けば、ウェイターやウェイトレスが皆広東語で声をかけてくれます。 しかし、最近の止められない中国大陸の経済発展の勢い、 およびますます増加している大陸出身の留学生と移民の数のために、 これからのチャイニーズ・レストランの第一言語は そのうちに北京語(Mandarin)に変わることを物語っているでしょう。

一方、話によれば、1950年代にマレーシア系中国人がオーストラリアの各地で レストランを競って作りました。政府は、悪質競争及び人口過集中を防ぐため、それぞれの町に、 一つか二つの家族しか入れない政策をとったそうです。 この政策によって、今では、どの町にもチャイニーズ・レストランがあり、 そして、一軒か二軒しかありません。

オーストラリアでは、チャイニーズ・レストラン以外にもどんなに小さな田舎町でも 必ずあるものがほかにまだあります。さて、何でしょう?

それでは、またね。

りょう